どうも。今日はリッジレーサー7をやりながら思ったことを適当に。
やってて気になったのが名誉スポークスマンという役職です。
この作品では永瀬麗子という女性(リッジのマスコットキャラですね)が
この役職についています。気になるのは役職の名前です。
当然永瀬麗子は女性ですから、スポークス「マン」という表現は
厳密に言えば間違いです。正しくはスポークス「パーソン」でしょうか。
女性の社会進出や、男尊女卑の禁忌視からあらゆる「マン」が「パーソン」に
ここ数年で変わりつつあると思います。チェア「マン」とかもそうですよね。
にもかかわらずこのゲームでは女性がスポークス「マン」をやっているのです。
こんなところに8年前のゲームであることを思い出させるものがありました。
自分の発見ではありますが、ちょっと面白かったです。
そしてもう一つはゲームや様々なものがもつ強制力です。
このゲームで一番おもしろいところは左にカーブがあるからといって
必ずしも左にハンドルを切る必要はないと言うところです。
タイムアタックとかそういうものに拘らなければ
右にハンドルを切っても一回転する形で左カーブを抜けることができます。
そうです、右は右でも3回右に曲がればそれは左に行っていることと
変わりがないのです。そう考えると何故こういうレースゲームで
自分たちは無意識に左に曲がることを半ば強制的にしているのでしょうか。
学校などの教育現場においてもそうです。何故何の変哲もない
ただ椅子と机がおいてある環境において生徒は指示された通りに座り、
また起立し、挨拶をするのか。それは生徒と先生の主従関係があるから。
確かにそうなのかもしれませんが、ではゲームではどうなのか。
主従があるとすると自分たちはゲームに「遊ばれているのか」。
では、ゲームを「遊ぶ」とはどういう状況を指しているのか。
時速300kmでドリフトをしながら上記の様な事を考えてしまいます。
もちろん答えはないです。考えるだけで終わってしまいます。
でも、そう考えさせてくれるゲームはある意味貴重です。
考えすぎなのかもしれませんが、やっている当人としては楽しかったです。
長くなりましたが、今日はこの辺で。